音楽劇『ダ・ポンテ』

 

割と辛辣です。

 

まず第一報を聞いた時に面白そう!と思ったんですね。
モーツァルトの名作オペラを書いた人物でありながら、今回の舞台化まで自分は存在も知らなかった台本作家ダ・ポンテ。キャッチコピーの『モーツァルトの名作オペラを書いた破天荒なペテン師- 世界で一番、不幸で、幸運な詩人の物語』も素敵。
推しは勿論のこと、女性陣も好きな方ばかり、海宝君を堪能できるオリジナル舞台なんて素敵。
メッチャ面白そう!と期待値がどエライ高かったです。

期待値が高すぎたのがいけなかったのか、観劇後の素直な感想は、
この面白そうな題材にこのキャスト陣揃えて、コレ???でした。
面白くない訳じゃないけど、もっと面白くなったんじゃなかろうか。。。
not for meだったのかな、と思いつつももっとこうして欲しかったということがコンコンと出てくるので、ツラツラと書いていこうと思います。
ので、この時点で、エッ??すっごく面白かったよ!!!という方はリターンでお願い致します。
ちなみに割と微妙な感想を抱えながら帰路につき、ほかの方の感想はどうだったんだろうかとネットを漁ってみたら絶賛の嵐!!!だったので、世間との感性のズレを感じました。
という訳で以下、世間とはズレまくった感想となります。

 

まずこの作品で何を描きたかったのかが分かんなかったです。
数奇な運命を辿ったダ・ポンテの生涯を描きたかったのか、
天才モーツァルトとの友情を描きたかったのか。
W主演の様な第一報のチラシ、サイトのイントロダクションを見た時、私は「モーツァルトとの友情に主軸を置くのかな?」と思っていました。【死後何百年経っても世界中の誰もが知る偉大で有名な音楽家。その彼の傑作オペラを書いた風化され忘れ去られた詩人。何故、モーツァルトは名を残し、ダ・ポンテは忘れ去られたのか。それは歴史に埋もれた誰も知らない2人だけが知る事実】という感じのストーリーになるのかなと勝手に思ってました。2人だけが知る事実というのは違うかもしれないのですが、何か大きな創作のポイントがあるんだろうなと思ってました。
が、蓋を開けてみればそんなことはなかった。
まずそもそも2人の出会いからして、んーーーと思ってしまいました。
ダ・ポンテはいいんですよ。処女作がサリエリの所為で本意の作品にならず酷評され傷つき、音楽家なんてという思いで自棄酒をあおり、その場に居合わせた同じく脚本家に不満を持つモーツァルトと出会う、という流れで文字だけみると何もおかしくない場面なんですが、居酒屋で自棄酒あおってるグダを巻いているダ・ポンテの元にピアノに突っ伏したモーツァルトが急に出てくるんですよ。ここも2階席から見ると酔って寝てるんだろうな、と分かるんですが初見の1階席の時はそこにいるということが分からず、ピアノの裏に隠れてたの??とビビりました。
ダ・ポンテの愚痴を聞いて不満で顔を歪ませて音楽家である自分は、とかいう描写ではなく、今まで舞台上に居なかった(観客から見えなかった)モーツァルトが急に出てくるんですよ。おかしいやろ。まあそこはそういう演出だからで飲み込んだとしても、その場面の前にモーツァルトが詩人に不満を持つという描写がなかったのが受け入れがたい。
例えば「僕のこの美しい音楽になんて酷い詩だ」とか「無難な言葉ばかりでインスピレーションが何も浮かばない!」と場面じゃなくてもそんな台詞があれば、ああモーツァルトも不満を持っていて、お互い出会うべき人に巡り合ったんだなと素直に受け入れられるのに、史実がそうだから出会うしかないよね。出会いのシーンです。みたいにご都合よく描かれてるのが凄く気になりました。もっとドラマチックな出会いのシーンでも良かったんじゃないかな。

そして観てる途中で、「あーーなんかコレ、モーツァルトとの友情よりもどっちかっていったらダ・ポンテ自身に主軸を持っていきたいのかな?」と思いました。
そう思ったのが田村芽美ちゃん演じるダ・ポンテの父親の再婚相手とのエピソード、もっといってしまえばダ・ポンテの過去を描いたシーンを見た時ですね。
そして、このシーンを観た時に何故???となりました。
シーンの内容はこうでした。

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めいめい演じる義母、オルソラはダ・ポンテの4つ年上、母親とは言えない年齢差。
そしてカトリックである彼女のために改宗し、名前を変え、ロレンツォ・ダ・ポンテとして神学校へ通い、神父を目指します。ユダヤ人でありユダヤ教徒であったダ・ポンテにとっては受け入れがたい強要ではあったけれど、横暴な父親に逆らえず、ユダヤ人として疎外されながら孤独な学生生活を送ります。そんな中、秘密にしたためていた詩をオルソラに見つかり、その詩を褒めて貰うことで、自分に詩の才能があることに気付き、言葉を紡ぐことを心の拠り所とし、学校で賞を貰い認めてもらう喜びを知り、実家へ報告しに行きます。玄関を開けると丁度父親がオルソラに暴力を振るっている真っ最中、彼は彼女に今まで秘めていた恋心を打ち明け、逃げようと誘います。彼女はダ・ポンテを一度は受け入れながらも神に背くことができず、「こんなこと許されない!」「私たち地獄へ落ちるわ」と彼に呪いの言葉を吐き捨ててしまったのでした。
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このシーンを観た時、メチャメチャ面白いシーンじゃん!!!いいじゃん!!!
何故、これをメインに持ってこなかったんだろう???と思ってしまいました。
メインとまでも行かずに、めいめい演じる義母に惹かれるシーンをもっと丁寧に描いた方が良かったんじゃないかな???

あとラストとってつけたように井上小百合ちゃん演じるフェラレーゼがダ・ポンテが惹かれたサンマルコ広場で歌っていた物乞いの少女だったと彼女の台詞で判明したのですが、唐突過ぎるし、あのシーンでそんな伏線回収要る???となりました。
個人的には下記だったら納得したかな?と思いました。


オルソラに惹かれて迷う描写を多くし拒絶された後、彼女の面影を求めると同時に女性への復讐心も持って女性と浮名を流し(女性にだらしない描き方ももっと露骨でいいような気がするんですよね)、荒んだ生活を送りながらも自分を支えているのは、オルソラと自分をユダヤ人と迫害した神学校が認めてくれた自分の詩の才能。
フェラレーゼとの出会いは神学校でいじめられてる時か、オルソラに拒絶されて傷ついてる時のどっちでもいい。ちなみにこの時のフェラレーゼは子役であってくれ。
フェラレーゼに恋に落ちるシーンもあんなとってつけの一目惚れではなくて、彼女の歌を聞いて恋に落ちた方が絶対良かったと思うんですよ。
周りはみんな酷評してるけど、ダ・ポンテは彼女の歌に強く惹かれる。
ここ観客は分かりやすいと思うんですよ。だってそれって結局好みの問題だから。沢山の舞台俳優さんが居てその中で強く惹かれる押しがいる。歌が、演技が、ダンスが好みだから。だからファンになる。上手で人気があるのは分かるけど、そこまで強く惹かれない俳優さんはただ単に好みから外れてるだけ。
ダ・ポンテが歌手・フェラレーゼに強く惹かれるのは荒んでいる時に心惹かれた歌を歌っていた、あのサンマルコ広場の少女だから。

モーツァルトと「耳が腐ったのか?」と言われても惹かれる気持ちを止めることはできない。

ここまで書いて改めて思ったのですが、結局この作品はダ・ポンテの何を描きたかったんだろう。
例えば、ドン・ジョバンニ作成時はモーツァルトと2人で傑作ミュージカルを作るんだ!!!と活き込んで海宝君渾身の歌唱があったのに、「ウィーンの人々の口には合わない」って言われて「そうですね」ってあっさり引き下がるのも何だよ、って思ったし、サリエリに「コジ・ファン・トゥッテでオペラを書いてみたら?」って言われたら「じゃあ、サリエリ先生、曲をお願いします」ってなるのも、何だよ、さっきモーツァルトの曲聞いて「君の音楽は僕にインスピレーションをくれる」(台詞うろ覚え。兎に角最高の相棒だ的な誉め言葉を言っていた)とか言ってたのに、特にエピソードもなくサリエリに曲頼むの、何だよ。。なんなんだよ。。。
ここも例えばダ・ポンテのみを描きたいならありなのかな、と思うんですよ。ただ、モーツァルトとのW主演です!2人の友情がメインです!!みたいな物語の運びをした結果、そうじゃなかったので、エッ???何で???と思ってしまいました。
兎にも角にも主題が定まっていないのが本当に気持ち悪かった。
描きたい場面はあるんだろうけど、何を中心に魅せたいか明確じゃないように見えるから各エピソードの繋がりが雑だし、その結果として登場人物の思考と行動と言動が繋がらなさ過ぎて、いやだから何???という思いが止められなかった。
例えばサリエリ先生がラスト、ダ・ポンテに「後進を育てるのが自分の役割で自分の名を残すことに執着してない。そこが君との違いだ」みたいな歌を歌って拒絶するんですが、貴方は今まで劇中で少しでもそんな素振り見せたか???と。

印象的な歌だし相葉君も凄く良かったんだけど、あまりにも内容が急すぎんか???
今までのサリエリ像と繋がらなさ過ぎて、良い歌だったのに凄い消化不良の場面だったんですよね。


ロレンツォ・ダ・ポンテという人物が
ユダヤ人にも関わらずカトリックに改宗したのことも
スキャンダルの所為でヴェネツィアを追放されたことも
モーツァルトと傑作ミュージカルを作ったことも
後世に自分の名を残したいと野望を持っていたことも
ヨーゼフ2世亡き後、ウィーンを追放されヨーロッパを放浪して、アメリカに辿り着いたことも
全てが本当で、全てがミュージカルの中で描かれてる。
でも彼の濃過ぎる人生を2時間半で描かれると、結局何を伝えたかったの??と主題がぶれてわからない。全てを伝えたいなら、モーツァルトとの関係に重きを置かなくていいし、モーツァルトとの関係に主軸を置きたいなら、もっと2人の創作に重きを置いて欲しかった。

結構辛辣な感想だなと自分でも思うのですが、面白くない訳ではなかったです。
ただ、このロレンツォ・ダ・ポンテという人物はもっと面白く描くことができたのではないかな、と思います。

 

そしてもう一つ、舞台装置も簡素なのが気になりました。
簡素であるが故に下手にスポットライトを当て、キャストがお芝居している間に暗転している上手で舞台セットを用意し、上手でお芝居している時は逆に下手を暗転させ舞台セットを組み、ということを繰り返していたのですが、舞台セット(ピアノとか机とかベットとか)は装置で動かしているのもあったのですが、人力で動かしていたのもあったので、暗がりの中でスタッフさんの影が目の端に入るのが気になりましたし、その度にガラガラと音が鳴るのも気がそぎれました。
舞台転換の度に、ガラガラ~ガラガラ~と、鳴り響く音に
ガラガラガラ~じゃねえよ。。。
と思わず観劇中に突っ込んでしまった。アンサンブルも足りないように思えました。
チケット代の値上がりは仕方ないことだとわかっているけど、それでも1,2500円払ってこの舞台セットなのか……とガッカリしてしまったし、だったら後5,000円払ってMR観た方が満足度が高いのでは??と思ってしまった。よく知らないけど、あっちは象が出てくるんでしょ??

チケット代に関して高いなーとぶちぶち思い、舞台に満足できなかったことで改めて自分はもう東宝のお客さんじゃないんだなと思いました。
推しのことは変わらず好きだし、今回の舞台も観れて良かったとは思ってはいます。
勿論、ヴァグラントもミア・ファミリアも観劇予定ではあるんだけど。

高いチケット代払って満足できなかった時の心の落とし所がもう分からないよ。
信頼関係がぶつっとなくなったなと思わざるを得ない。
今回の舞台が原因でということはなく、コロナ禍での直前中止、上演中の中止等々を繰り返した結果、観劇ということが自分の中で楽しみではなく辛さの方が大きくなった気がします。直前中止やその他色々な仕方ないことは主催の所為ではないし、そこに文句はないけれど、主催者側が辛い思いをするのと同じぐらい観客側も辛いししんどい思いをしている訳で、そこはやっぱ無視できないし蓄積されてしまう。
それにチケット値上げもMRの時、版権高い作品だしセット豪華だから仕方ないよね!とまるでこの作品が特別!!!みたいな言い方をしていたのに蓋を開けてみればMR以降の作品もきっかりチケット代上がってるんだよね。だったら初めから言っといてくれよ、と。。。有名作曲家に依頼するから仕方ないと言いつつ、東宝じゃないけど日本人には1作品ミュージカル音楽は作れないと発言したり(発掘や育成してから言ってほしいんですけど。。。)、帝劇での2.5次元作品も興行的には成功してるっぽいのでこれからもこの道を進んでいくんでしょうけど、個人的にチョイスされた作品に全く食指が動かず。。
いやもうこれは完璧に個人の問題なんですが。。。
これが同じ漫画原作でも数か月前に発表された四季の『レディ&ゴースト』は「ええぇ!!!ラスト号泣した作品!!!四季観たことないし、チケットの取り方分かんないけど絶対に観に行く!!!!」とテンションがメチャメチャ上がったんだけどね。。。
漫画原作の舞台って原作が好きだったらテンション上がるけど、興味なかったらテンション上がりづらくないですか??原作基本的に長いし、

何十巻も刊行されて、まだ連載中とか、長ぇよ。
個人的に東宝2.5次元の題材選びの好みが合わないのは致命的な気がする。。。
いやもう本当個人の問題なんですが。。

 

ぶちぶちとネガティブな感想を書いてしまいました。。
ポジティブなところはキャストは凄く良かったです。それは本当に。
逆にキャストが良かったが故に、何故この出来???という感想が強いのかもしれない。。
あんまネガティブなこと書かない方がいいかな、と書かない選択を今まではしてきたこともあったのですが、何かもう色々なことが積み重なって書いてしまいました。。
そしてブリリアで観た時、前席が背の高い男性で視界の3分の1ほど死んでました。

久しぶりに「ブリリア爆破しろ!」という言葉を思い出しました。
本当、早く爆破されないかな。もうコナンの映画とかでもいいから。。。